立ち読み(前編)

夢の足あと

1.

 横浜の街並みがゆっくりと朝を迎えた。

とある高級マンションの1室のカーテンが開いた。窓から街並みが見渡せる眺めのいい部屋だ。そこに明るい空をまぶしそうに見ている男がいた。男は気持ちのいい日差しを浴びて大きく伸びをした。男の名は十合(とごう)孝太郎、28歳。長身で清潔感が漂う好青年だ。キッチンではコーヒーメーカーから挽きたてのコーヒーのいい香りが漂っている。孝太郎は新聞を片手に持ってコーヒーをオレンジ色のカップに注ぎ、リビングのテーブルに置いた。広いリビングは15畳近くあるだろうか。孝太郎はこの部屋で1人暮らしをしている。

 新聞を読みながら、ゆっくりとコーヒーを味わった後ちらりと時計を見た孝太郎は、身支度をするため寝室へ入った。ベッドの横に大きな本棚が置いてある。そこには小説がギッシリと並べられている。全て小説好きの孝太郎が読み終えた本だ。この日も昨夜遅くまで読んでいて、枕元に置いたままにしていた本を本棚にしまった。そして、クロゼットを開いてネクタイを選び始めた。いつもより慎重に選んでいるようだ。それにはちゃんと理由があった。今日は孝太郎の28回目の誕生日。恋人と一緒に夕食をする約束をしているからだった。

 やっと決まったネクタイを、気を引き締めるようにキュッと締めた。普段は笑顔が爽やかな青年だが、仕事となると顔が凛と引き締まる。気合いを入れるように一呼吸した後、ブランド物のスーツをバッチリ着こなし、颯爽と会社へ向かった。

 孝太郎が向かったのは8階建てのビルの6階にある小さなオフィス。建物に入りエレベーターへ近づくと、エレベーターを待っていた女性が孝太郎に気づいて丁寧にお辞儀をして言った。

「おはようございます、十合社長」

「おはよう」

 孝太郎は若くして、ゲームソフトの開発やテレビCMのCG製作などを手掛ける会社「プロソフト」の社長だ。大学を卒業した後、父親の経営するコンピュータ会社で働いていたが、2年前そのCG企画部を独立させ今の会社を設立し、その経営をいっさい任されている。年齢も若いし社長の息子ということもあって、社員の目は厳しかったが、持ち前の負けず嫌いな性格と明るさで頑張っている。

 社員15人ほどの社内は、ベージュとブルーをベースにした綺麗なオフィス。デスクには各自のパソコンが置かれている。孝太郎が一番奥のデスクへ向かう途中、皆が丁寧に挨拶をする中、1人だけ片手をひょこっと上げて慣れ慣れしく挨拶をする男がいた。孝太郎も片手を上げて答えている。その男は、杉本聡。ハンサムとは言えないが、粋なめがねを掛け愛嬌のある顔をしている。2人は同じ大学へ通っていたときからの親友だ。聡は、孝太郎が会社を引き継いだときから、社員として孝太郎の片腕となって働いている。

 孝太郎が席に着くと携帯電話が鳴った。電話は孝太郎の母親だった。

「おめでとう、あなた今日誕生日でしょ。今日はどうするの?帰って来るんだったらご馳走用意しなきゃと思って電話したの」

 育ちの良さが伺える品のいい母親は明るく言った。

「今日は彼女と一緒だよ」

 孝太郎は少し小声で答えた。

「そう、それならいいけど……たまには顔見せに帰って来なさい」

「ああ、今度彼女連れて行くよ」

 孝太郎は母親の寂しさを察しながらも、めんどくさそうに言った。

 同じ頃、お世辞にもおしゃれとは言えない小さなマンションで、母親と2人、朝食をとっている女がいた。孝太郎の恋人、阿部三奈代、26歳。髪はショートで、あまり化粧もしないが、色が白く綺麗な目をしている。なかなかの美人だ。

「今日は孝太郎さんの誕生日なの。一緒に食事する約束をしてるから、悪いけど夕食は1人で食べてくれる?」

 体があまり丈夫ではない母親を気づかいながら三奈代が言った。

「私のことは気にしないで、たまにはゆっくりしておいで」

 母親は優しく言った。

「ごちそうさま」

 食事を終えた三奈代は仏壇の父親に手を合わせた。父親は勤めていた会社が倒産し仕事を探している最中、交通事故で亡くなった。三奈代が5才の時だった。それから母親が女手一つで三奈代を育ててきた。生活は苦しかったが三奈代は明るく素直に育っていった。3年ほど前から、母親は今までの無理がたたって病気がちになっていた。

「じゃあ、行ってきます」

 母親にそう言うと三奈代は家を出た。三奈代が向かった先は、小さな画廊。幼い頃から絵を描くのが好きで、将来は画家になって自分のアトリエを持つのが夢という三奈代は、この画廊で画家の助手として働きながら絵の勉強をしている。

 そんな三奈代と孝太郎が出会ったのは、孝太郎の父親が、三奈代が勤める画廊の画家、森川雅美の絵を購入したのがきっかけだった。孝太郎が、たまたま父親の会社を訪れていたとき、社長室に絵を配達に来たのが三奈代だったのだ。三奈代を見て一目惚れに近い感情を抱いた孝太郎は、何度も画廊へ足を運び積極的に交際を申し込んだのだった。初めのうちはあまり乗る気で無かった三奈代だったが、その熱心さにだんだんひかれていった。

 仕事が終わり予約を入れている店に先に着いたのは三奈代だった。肩から大きな袋を下げている。厚みはないが横幅は50センチメートルくらいあるだろうか。薄く四角い箱のような物が入っている。店内は薄暗く優しい雰囲気に包まれていた。

「いらっしゃいませ」

「あの、十合で予約をしていると思うのですが」

「お待ちしておりました、こちらへどうぞ」

 ウェイターはそう言った後、三奈代が肩から下げている大きな袋を見て、

「お荷物をお預かりいたしましょうか?」

 と手を差し伸べた。

「あの、これは結構です」

 三奈代はそう言って袋を大事そうに抱え直した。ウェイターが誘導したのは窓際のテーブルだった。テーブルの真ん中にキャンドルが一つ灯っている。三奈代は椅子に座ると、持っていた大きな袋をテーブルの足元に立てかけた。

「もうしばらくお待ち下さい」

ウェイターはそう言うとテーブルを離れた。三奈代は時計を見た。約束の時間にはまだ20分も早かった。三奈代は待ち遠しそうな顔で窓の外を見た。少し上から見渡したそこには、すばらしい夜景が広がっていた。遠くの方に見える高速道路には、車のライトが光の川のように流れ、たくさんの灯りはひとつひとつ優しく灯っていた。夜景を眺める三奈代の瞳も、きらきらと輝いていた。

 10分ほど経って孝太郎が店に入ってきた。孝太郎は先に席について待っている三奈代をすぐに見つけた。三奈代も入ってきた孝太郎に気付き小さく手を振った。三奈代の顔を見ると孝太郎の顔は本当に優しい表情になる。ウェイターに促されて孝太郎は三奈代の向かいに座った。

「待った?」

「ちょっと早く来すぎちゃった」

 それだけ話すと別のウェイターがメニューを持ってテーブルに来た。

「おまかせでいい?」

 三奈代にそう確認すると、メニューを指しながら手慣れた感じで注文を始めた。その様子を三奈代は嬉しそうに見つめていた。

 ウェイターがテーブルを離れると三奈代は窓の外を眺めながら言った。

「素敵な夜景ね」

「気に入った?」

「ええ、とっても」

そう言った後少し声を小さくして、

「でも高そう」

 と言った。孝太郎は笑いながら言った。

「気にしなくていいよ」

「孝太郎さんの誕生日なのに私の方が喜んじゃって、何か変ね」

 三奈代はそう言ってクスッと笑った。

「誕生日なんてどうだっていいんだ、三奈代と一緒にいたいだけだから」

 そんな話をしているうちにシャンパンが運ばれてきた。ウェイターが二人のグラスにシャンパンを注いだ。

「お誕生日おめでとう」

「ありがとう」

 2人は乾杯をした。シャンパンを一口飲んだ後三奈代はグラスを置き、足元に立てかけてあった袋の方に手をやりながら、

「私、大したプレゼントしてあげられないんだけど、絵を描いたの。もらってくれる?」

 そう言って、袋を床に着けたまま孝太郎の足元に寄せた。

「え、俺のために描いてくれたの?見ていい?」

「え、ここで?」

 三奈代がそう言い終わらないうちに、孝太郎は袋からその絵を取りだしていた。絵は白い額に入れられていた。そこには孝太郎の部屋の窓から見た景色が描かれていた。

「ほら、この前下書きしたでしょ」

 1ヶ月ほど前、三奈代が孝太郎のマンションを訪れたとき、窓の外を見ながら鉛筆で書いていたのを思い出した。

「ああ、あの時の……」

 三奈代の絵はいくつか見たことがあるが、全体に白を重ねた色合いと、筆のタッチは三奈代の絵独特なものだ。孝太郎は三奈代の絵に心癒されるものを感じていた。孝太郎が絵を眺めている間に、料理が運ばれテーブルに並べられた。

「ここだけの話、三奈代が勤めている画廊の先生よりも、三奈代の絵の方がずっといいよ」

 孝太郎は少し声を小さくして言った。

「そんな、失礼よ、雅美先生の絵はすばらしい絵よ。どうやら絵を見る目は孝太郎さんよりお父様の方があるみたいね」

 三奈代は少し怒った様に言った後笑った。孝太郎も苦笑いした。

「嬉しいよ、ありがとう」

 そう言って絵を袋の中にしまい、2人は食事を始めた。

「ところで、留学の方はどう?」

 孝太郎が聞いた。

「来年の春くらいには行けるかもしれない」

「来年か……」

 三奈代は絵の勉強をしにフランスへ留学することを強く望んでいた。家の事情で進学を諦めた三奈代は、ずっと働いて家計を助けながらその費用をこつこつと貯めていたのだった。決して恵まれた生活ではなかったが、三奈代はいつも明るく前向きで一生懸命に生きていた。孝太郎はそんな三奈代を心から愛おしく想っていた。

「向こうへはどれくらいいるつもりなの?」

「2年は勉強したいと思っているの。働きながらだから」

「2年か……そんなに三奈代と会えないのか……でも夢のためだもんな。浮気するなよ。」

 孝太郎は少し心配そうに言った。

「それはこっちの台詞です」

 三奈代はそう言って笑った。

「お母さんのことが心配なんだけど、そのために私が諦めたらお母さんが苦しむから」

 あまり身体が丈夫でない母親のことがどうしても気がかりな三奈代は、少しうつむいた。

「お母さんのことは大丈夫。何かあったら俺が飛んで行くよ。」

「ありがとう」

 孝太郎の優しい気持ちを心から嬉しく思った三奈代は笑顔で言った。その笑顔が孝太郎にはまぶしいほどに見えた。

 ゆっくりと食事をした後店を出た2人は、しばらく夜の町を歩いた。

「ごめんなさい。荷物になってしまって」

 三奈代の絵を肩から下げている孝太郎に三奈代は申し訳なさそうに言った。

「いいよ」

 孝太郎は袋を抱え直しながら言った。2人は時折笑いながら楽しそうに腕を組んで歩いた。路地に入っていくと露店が何店か出ていた。1つの店の前で足を止めた。手作りのペンダントやブローチなどが並んでいる。それと一緒に一冊の古びた本が並べて置いてあった。孝太郎はその本を手に取った。あずき色のようなその表紙カバーは、所々すれていて著者もわからなかった。背中に羽をはやした、天使のような子供の姿がうっすらと見える。

「夢の足あと……」

 孝太郎が本のタイトルをつぶやくように読んだとき、

「ねえ見て、ミサンガ、私これ欲しい」

 めったに物をねだったことがない三奈代が珍しくそう言った。見ると3種類の色のミサンガが束ねて置かれていた。その中から三奈代は黒と青の2色で編んである物を選んだ。

「その色でいいの?」

「ええ、この色がいい、お揃いで付けましょうよ」

「じゃあこれください」

 孝太郎は手に取っていた本とミサンガ2本を買った。

「ねえ、結んで」

「え、今?」

 孝太郎はそう言いながらも嬉しそうに、買ったばかりのミサンガを三奈代の左手首に結んだ。そして、

「三奈代の夢が叶いますように」

 そう言って笑った。今度は三奈代が孝太郎の左手首に結んだ。

「孝太郎さんの夢は何?」

 三奈代の問いに孝太郎は一瞬言葉を詰まらせた。考えてみると、孝太郎には三奈代が抱いているような大きな夢がなかった。孝太郎はすぐに気を取り直し笑って言った。

「有名画家さんの旦那さんになれますように」

 二人は声を出して笑った。そして真新しい結んだばかりのミサンガを上にかざし、手首を並べて眺めた。

 これから孝太郎が体験する不思議な物語は、全てここから始まった。

2.

 三奈代を送った後マンションに帰った孝太郎は、鍵をテーブルの上に置くとすぐに、今日三奈代からもらった絵を袋から取りだした。絵はソファーに座った位置から見える場所に飾ることにした。何度も少し離れて傾きを確認しながらやっと位置が決まった。腕を組んでその絵を眺めた孝太郎は、嬉しそうに何度かうなずいた。

 着替えを終え、冷蔵庫から缶ビールを取りだしソファーに座った孝太郎は、絵を眺めながらビールを一口飲んだ。そして手首に結んだミサンガを触りながら、さっきまで一緒に楽しい時間を過ごした三奈代の事を考えていた。孝太郎の顔は自然にほころんでいた。顔をほころばせたまま、ミサンガと一緒に買った本を袋から取りだした。そして、ソファーにもたれて本をめくった。

  この本を手にした者は、時間を自由に行き来する事ができる様になる。

  但し、行けるのは過去だけだ。未来を見ることは不可能である。

  なぜならば、人に決められた未来はないからである。

  もしも未来へ行ったならば道に迷い二度と戻れなくなるだろう。

 そんなくだりで始まったその本の物語は、1人の冴えない青年が1冊の本を手にしたことで、過去へ行くことが出来るようになり、現在を変えていくというものだった。孝太郎は時間も忘れて一気に読み終えた。そして、最後のページを開いた。

  あなたが行きたい年月日を、青いインクで記入して下さい。

  但し過去のみ。決して未来へは行かないで下さい。

  記入した後本は閉じ、枕元に置きます。

  目を閉じたら「エルピス」と唱え、眠りについて下さい。

 そのページには、過去への行き方がごく自然に書いてあった。

「まるで本当に行けるみたいに、普通に書いてあるんだなあ」

 孝太郎はばかばかしいと思いながらも、なぜかそのページが気になって仕方がなかった。真ん中に年月日が入れられるように、四角い空白がある。その回りにはアラビア文字のような、文字とも模様とも言えないようなものが、びっしりと書かれている。じっと見ていると本の中に吸い込まれるような感覚がした。

 時計を見ると午前2時を回っていた。孝太郎は寝室へ向かった。ベッドに入りそのまま寝ようとしたが、やはり本のことが気になって仕方がない。気がつくと孝太郎は、無意識に青いインクのペンを探していた。

「そうだな、20年前の誕生日にしよう」

 1985年9月3日。適当に選んだ日付を丁寧に書いた。孝太郎は、自分の行動をばかばかしいと思いながらもどこかわくわくしていた。本を閉じると枕元に置きベッドに横になった。そして唱えた。

「エルピス」

 1985年9月3日

 孝太郎は公園にいた。小学低学年くらいの男の子がキャッチボールをしている。相手をしている男をよく見ると、

「親父だ」

 そこには若い頃の父親がいる。側にはカメラを持って嬉しそうにしている母親もいる。今とは随分違って若々しい。と言うことは、その男の子は、

(俺か?)

 男の子がボールを取り損ねた。ボールは孝太郎の方に転がってきた。母親はいい写真が撮れたとはしゃいでいる。

「もう、そんなところ撮らないでよ」

 そう言いながら男の子はボールを追いかけて孝太郎の方に走ってきた。

「やっぱり俺だ」

 キャッチボールをしている写真はアルバムで見たことがある。ボールは孝太郎の足元に転がってきた。孝太郎はボールを拾って、走ってきた「孝太郎」に投げた。

「お兄ちゃんありがとう」

「あ、いや」

 向こうで父親と母親が会釈をしている。孝太郎も思わず会釈をしたが、何とも複雑な気持ちだ。しばらくそのほほえましい光景を眺めているうちに目が覚めた。

「夢か……」

 外はまだ薄暗かった。

(あんな本を読んだから夢に出てきたんだろう。でも、妙にリアルだったな)

 確かに孝太郎の記憶にもはっきり残っている。いつも仕事が忙しくめったに家にいない父親だったが、たまの休みの日には、あんな風によく公園でキャッチボールをして遊んだ。

(写真……)

 孝太郎は懐かしくなって、クローゼットの奥にしまってあるアルバムを探した。懐かしいと言うよりも、夢で見た光景を確認したいという気持ちがあったのかもしれない。物をどかせながらやっとアルバムを引っぱり出したとき、部屋は少し明るくなっていた。そしてアルバムを開き、その頃の写真を探した。

「あったあった、これだ」

 公園でキャッチボールをしている写真は何ページにもわたって貼ってある。何ともほほえましい写真ばかりだ。その中の1枚に目をやった。ボールを取り損ねて口を大きく開けている写真だ。

「これは……」

 小学生の孝太郎の後ろに写っている男をよく見ると、

「俺だ!」

 小さいが確かに孝太郎が写っている。

(あのときおふくろが写した、あの写真……?いや、あれは夢だ。そんなはずはない)

 自分の小さい頃の写真に今の自分が写っているなど、そんなことは当然あり得ない。孝太郎は枕元に置いてある本に目をやった。

「そんな馬鹿な」

 そう言いながら本を手に取り、最後のページを開いた。見ると、確かに昨日青いインクで書いたはずの日付が消えている。孝太郎は気味が悪くなって本をベッドの上に放り投げた。そしてあわてるようにアルバムを閉じ、クローゼットの奥に突っ込んだ。頭の中を整理しようと大きく深呼吸をした。少し落ち着きを取り戻し静かに本を手に取ったその時、

 ピピピピッ

目覚まし時計が鳴った。孝太郎はびっくりしてすぐに時計のアラームを止めた。

「そうだ、今日は朝から会議があるんだ」

 孝太郎はふと我に返り、出かける準備を始めた。そして本を気にしながらも家を出た。

 会社では、今度発売される新作ゲームソフトの会議や打ち合わせに追われ、今朝あったことを考える余裕がなかった。3時を回り仕事が一段落ついた頃、聡が孝太郎のデスクの前に来た。

「十合社長、新作のパッケージのサンプルが出来たので、見てもらえますか?」

 聡は敬語だが馴れ馴れしくそう言うと、そのサンプルをデスクの上に置いた。手にとってそれをじっくりと見た孝太郎は、

「すごくいいよ、イメージ通りだ、これで行こう」

 そう言って聡に渡した。サンプルの出来に自信があった聡は、孝太郎の言葉に満足したような顔でその場を離れようとした。その時、急に今朝のことを思い出した孝太郎は聡を呼び止めた。

「なあ聡、ちょっと聞いてもらいたい事があるんだけど、今日時間ある?」

「何だよ深刻そうに、彼女と喧嘩でもしたのか?」

「いや、そうじゃない、とにかく聞いてもらいたいことがあって」

「わかったよ、じゃあ7時にいつもの店で」

「ああ」

 いつもの店とは大学生の頃からよく2人で通っている居酒屋だ。聡がデスクを離れた後孝太郎はパソコンに向かった。

 〈小説 夢の足あと〉

 と打ち込み、検索をした。検索結果、該当一件と出た。孝太郎は詳しい内容を開いて見た。

 〈著者 詳細不明〉

 〈著書 夢の足あと〉

 〈内容紹介 一人の冴えない青年が一冊の本を手にしたことで、時間を行き来出来るようになる不思議な物語〉

「詳細不明か、著書はこれ一冊だけなのか?」

 孝太郎はしばらくパソコンに向かい色々と調べてみたが、それ以上のことはわからなかった。

 7時を少し回り孝太郎が待ち合わせの居酒屋にはいると、聡は先にカウンター席に座っていた。

「悪い、遅れて」

「いや、俺も今来たところだよ」

 ビールと焼き鳥を注文した孝太郎に、

「で、話って?」

 聡が肉じゃがをおいしそうにほおばりながら聞いた。

「それが、夕べ不思議な夢を見たんだ」

「夢?」

 聡は孝太郎の意外な言葉に一瞬手を止めた。

「ああ、小学生の頃の俺が親父とキャッチボールをしているんだけど、側には若いおふくろもいて……」

 話の途中で聡が苦笑し始めた。

「深刻そうに何の話かと思ったら、夢の話かよ」

「違うんだ。昨日露店で本を買ったんだ、その本が……」

 聡は孝太郎の話を止めるかのように大きなため息を吐いた。

「お前は本当に幸せな奴だな、羨ましいよ」

 そう言ってビールを飲んだ。店員が孝太郎の前に焼き鳥とビールを並べて置いた。聡は続けた。

「真剣に悩んでいると思ったら、夢だの本だのって、勘弁してよ」

 聡にそう言われて孝太郎は少し不機嫌な顔になった。

「家が金持ちで小さいときから何不自由なく暮らして、大学を出ると、はいどうぞって会社を与えてもらってさ。まあ、就職難で行く当てがなかった俺を拾ってくれたんだから、感謝してるんだけどね。悩んでると思ったら夢?他にないのかよ」

「そんな言い方やめてくれよ。確かに与えてもらった会社かもしれないけど、俺だって努力してるよ。お前たちの知らないところで苦労もしてるよ。俺の力は認められないのか?」

 孝太郎は少し声を荒立てた。一番いやなところに触れられたからだ。今の孝太郎があるのは父親のお陰。何の苦労もなく温々としている。そう言われないために一生懸命頑張っているが、孝太郎の努力は見てもらえない。孝太郎は気を静めるためにビールを一気に飲み干した。聡は孝太郎の様子を見て少し言い過ぎてしまったと後悔した。

「悪かったよ。最近ちょっとひがみっぽくて」

 苦笑いをしながらそう言い、

「それで、夢がどうしたって?」

 と続けた。しかし、孝太郎はそれ以上話をする気分にはなれなかった。

「いや、もういい」

 静かにそう言うと、カウンターの上に2,000円を置き席を立った。

「待てよ十合、謝ってるじゃないか。そんなに怒るなよ。」

 聡は機嫌を取るように言ったが、孝太郎はそのまま店を出て行った。

 孝太郎は歩きながら大人げなかった自分を反省していた。そして、歩いているうちに、だんだんと今朝のことを思い出していた。どうしても誰かに聞いて欲しいと思った孝太郎は三奈代に電話をした。

「今、時間ある?」

 そう聞いた孝太郎に三奈代はせわしなく答えた。

「ごめんなさい。今度の個展の案内状、今日中に作成しなきゃいけないの。何か急ぎの用だった?」

「いや、いいんだ、また今度話すよ。じゃあ、頑張って」

 孝太郎は電話を切った。すぐに家に帰る気になれず、孝太郎は行きつけのバーへ立ち寄った。丸い窓がついた手作りの木のドアを開け、中に入った。木の温もりがするそのバーは、気持ちの落ち着くお気に入りの店だ。孝太郎はちょうどマスターの正面になるカウンター席に座った。短い白髪頭で口ひげを生やしたマスターは、とても穏やかな目をしている。

「いらっしゃい。今日は一人?」

 いつもは三奈代か聡が一緒なのでマスターは聞いた。

「うん、何かスカッとするやつ作って」

 孝太郎はそう注文した。歳は親子ほど離れているが、気を使わない気さくなマスターなので、話しやすいところも気に入っている。

「スカッとするやつねえ……」

 マスターはそう言いながら、ずらりと並べてあるボトルの中から何本か選んでカクテルを作り始めた。それを見ながら孝太郎は話しかけた。

「ねえマスター……」

「え?」

「いや……マスターはこのお店自分で始めたの?」

 今朝あったことを言いかけたが、他に客もいるので別の話をした。

「一応ね。でも全部借金だから、大変ですよ」

「すごいなマスターは」

 孝太郎はボソッと言った。マスターは、

「十合さんこそすごいじゃないですか。その若さで会社の社長なんだから」

 そう言って出来上がったカクテルをグラスに注いだ。

「どうせ親父に与えてもらった会社だから」

 孝太郎は自分で皮肉っぽく言った。

「何言ってるんですか。会社を創るのは僕みたいに借金してでも出来るけど、その後の経営の方が難しいんじゃないですか。十合さんは立派ですよ」

 経営の難しさを知っているマスターにそう言われて、孝太郎は救われた気がした。マスターは話を続けた。

「実は私もサラリーマンの経験があるんですが、人に使われるのも、人を使うのも苦手でして……人間関係に疲れて脱サラしたんですよ」

「そうなんだ」

 孝太郎はカクテルを飲みながらうなずいた。

「ところで十合さんのお父さんは一代で今の会社築いたんですか?」

 そう聞いたマスターに孝太郎は話を始めた。

「うん。俺が小学校に上がった頃かな、親父の友人が会社を立ち上げたんだ。で、その友人に頼まれて親父も出資してその会社の株を買ったんだって。そしたらその会社が急成長して株が鰻登りで上がったらしいんだ。その時儲けた金を資金に始めたんだって」

「そんなに儲かったの?」

 マスターは興味深そうに聞いた。

「かなり儲かったって聞いてる。ちょうどバブルの時期だったし」

「その会社って何やってたんですか?」

「詳しくは聞いていないんだけど、バブルに後押しされて色々やってたみたい。結局バブルが弾けた後その会社も弾けちゃって、今は音信不通なんだって」

「へえ、人生って何がどう転ぶか分からないもんだなあ。でも、だからおもしろいんですけどね」

 そんな話をしながらカクテルを2杯飲んだ後店を出た。

 気持ちよく酔いが回った孝太郎は家に帰ると着替えをし、ベッドの上に大の字に寝ころんだ。ふと机の上に置いてある本に目をやった。ゆっくり起きあがり本を手に取った。そして、もう一度クローゼットの奥からアルバムを引っぱり出し、例の写真を確認するようにじっと見た。

「やっぱり俺だ」

 何度見ても小学生の孝太郎の後ろに、今の孝太郎が写っている。孝太郎はしばらく考え込んだ。

「もう一度やってみようか?」

 疑うような目で本を見つめた。そして、青いインクのペンを手に取った。

 1985年9月3日

 孝太郎は公園にいた。小学低学年くらいの男の子がキャッチボールをしている。昨日孝太郎が見た夢と同じ光景だ。キャッチボールの相手をしているのはやはり父親だ。側には、カメラを持った母親もいる。男の子がボールを取り損ねた。ボールは孝太郎の方に転がってきた。母親は良い写真が撮れたとはしゃいでいる。

「もうそんなところ取らないでよ」

 そう言いながら男の子はボールを追いかけて孝太郎の方に走ってきた。ボールは孝太郎の足元に転がってきた。孝太郎はボールを拾い走ってきた「孝太郎」に投げた。

「お兄ちゃんありがとう」

「あ、いや」

 向こうで父親と母親が会釈をしている。孝太郎も会釈をした。昨日見た夢と全く同じだ。

(今俺は、本当に過去にいるのか?現実の過去に?)

 孝太郎はふとあることを思いついて、その親子へ近づいて行った。

「あの、良かったらみなさんの写真撮りましょうか?」

 孝太郎は大胆にもそう言って声をかけた。そう、写真を撮ってそれがアルバムに表れるかどうか、試してみようと思ったのだ。

「すみません。ではお願いします」

 母親がそう言ってカメラを孝太郎に渡した。3人は並んで孝太郎の方を向いた。小学生の孝太郎は嬉しそうにピースをして笑っている。

「お父さんもお母さんもピースして、もっと笑って」

 ファインダーを覗きながら孝太郎は言った。父親と母親は照れくさそうにしながらピースをして笑った。孝太郎は緊張した指でシャッターを押した。

「ありがとうございました」

 と言う母親にカメラを渡した。父親は笑っていた。

「お兄ちゃんバイバイ」

 小学生の孝太郎が手を振りながら言った。孝太郎は少し微笑んで手を振った。そして、何度か振り返りながらその場を離れた。孝太郎は他の様子も見てみようと、公園を歩き始めた。犬と遊んでいる女性、散歩をしている老夫婦、グループで輪になって座りなにやら大騒ぎをしている若者、色々な人達がいる。しばらく歩くと、砂場の縁に腰掛けて絵を描いている五5,6才くらいの女の子の後ろ姿を見かけた。肩まである髪を2つに分け、耳の上あたりで結んでいる。女の子の背後から近づき絵を覗くと、目の前にある象の形の滑り台が、クレヨンで上手に描かれている。

「上手だね」

 孝太郎は声を掛けた。

「お兄ちゃんだあれ?」

 手を止めて振り向いたその女の子は、綺麗な目の可愛らしい顔をしている。

「あっ、ちょっと散歩していて通りかかっただけなんだ」

 少し口ごもり気味に言った。女の子はまたすぐに絵を描き始めた。孝太郎はしばらくその絵を眺めていた。ふと、横に置いてあるクレヨンの箱に目をやった。そして、そこに書かれている名前を見て息をのんだ。箱には「あべみなよ」とひらがなで書かれてあったからだ。孝太郎はクレヨンと女の子を交互に見た。そして、

「君、三奈代ちゃんていうの?」

 おそるおそる聞いてみた。女の子はびっくりして振り向いた。

「お兄ちゃんどうして私の名前知ってるの?」

(やっぱりそうなんだ)

「いや、クレヨンの箱に書いてあったから」

 女の子はクレヨンを見て、

「なあんだ」

 と笑った。その屈託のない笑顔には、確かに三奈代の面影があった。

「よく絵を描いてるの?」

「うん」

 孝太郎は色々と話しかけた。

「三奈代ちゃんは、絵描くの好きなんだ」

「私ね、大きくなったら画家になりたいの」

 目をきらきら輝かせてそう言う小さな三奈代を、たまらなく愛おしく思った孝太郎は、思わず自分の手に付けているミサンガを外していた。そして、

「これはね、願いが叶う魔法のリングなんだよ」

 そう言って、小さな三奈代の左手首に結んであげた。

「私にくれるの?」

「うん、三奈代ちゃんの夢が叶いますように」

 孝太郎は心からそう思いながら言った。

「ありがとう」

 目を輝かせながら満面の笑顔で言った三奈代は、ふと、誰かを見つけた。

「あっ、涼太君だ」

 孝太郎が三奈代の見た方向を見ると、三奈代と同じ年頃の男の子がボールを蹴って走っていた。

「知ってる子?」

「うん。岡村涼太君」

「ふうん」

 孝太郎はそう言って男の子を見ていた。男の子は膝や胸を巧みに使って上手にリフティングを始めた。

「涼太君のパパも、私のパパと同じ会社でお仕事していたの」

「そうなんだ」

孝太郎は、少しうつむいた三奈代を気にしながら言った。

 ピピピピッ

 目覚まし時計が鳴った。目を覚ました孝太郎はすぐに起きあがりアラームを止めた。そして、急いでアルバムを開いた。孝太郎が写っている例の写真の隣に、親子三人がピースをして笑っている写真があった。確かに昨日までなかった写真が一枚増えている。

「……」

 これを現実と思うほか説明はつかなかった。孝太郎は考え込みながら自分の左手首を触った。

「ないっ」

 ミサンガがないことに気づき、布団をめくって探してみたが何処にも見あたらなかった。その日一日、孝太郎は会社でも上の空で仕事が手につかなかった。聡は昨日の事もあって、そんな孝太郎を心配して気遣っていたが、孝太郎は昨日とは違い誰かに話をしたいとも思わなかった。何とか一日が終わろうとした時、三奈代から電話が入った。

「お母さんが倒れて、今病院にいるの」

 今までに聞いたことがないほど、ひどく落ち込んだ声だった。

「すぐにそっちに行くから」

 そう言って電話を切った孝太郎は聡を呼びだし、理由を説明し残った仕事を任せて病院に向かった。

 孝太郎がお見舞いの小さな花を持って病室に入った。三奈代の母親は体にチューブをたくさん付けられ眠っていた。側にいた三奈代は、疲れきっている様子だった。花はとりあえず小さなテーブルの上に置き、2人は静かに病室を出た。そして誰もいない待合室のソファーに座った。

「あ、昨日何か話があったんじゃ……」

 そう言う三奈代に孝太郎は言った。

「いや、大したことじゃないから。それよりお母さんの具合どうなの?」

「まだ検査の結果が出ないと詳しいことは分からないんだけど、もしかしたら手術が必要かもしれないって、先生が」

あまりに落ち込んだ様子に、孝太郎は何を言ってやればいいのかわからず、肩に手を置いてあげるのが精一杯だった。

「これでまた私の夢が先に延びそうだわ」

「まだわからないじゃないか。それに手術すれば治るんだろ。大丈夫だよ」

 孝太郎はなんとか元気づけようと思った。

「お母さん1人に出来ないし、留学どころじゃなくなっちゃった。手術代もかかるし、入院費用だって……」

 いつも前向きな三奈代もこの時ばかりはすっかり落ち込んでしまっていた。孝太郎は三奈代が留学のために、一生懸命やってきたことを知っているだけに、どうしても助けてあげたいと思った。

「大丈夫だよ、お金なら俺がなんとかするから」

「やめて、そんな意味で言ったんじゃない」

 孝太郎の言葉をかき消すように三奈代は言った。

「俺はただ、三奈代を助けてあげたいんだ。三奈代の夢を叶えてあげたいんだよ」

 必死で言う孝太郎に三奈代は静かに言った。

「私、貧しいから、お金がないから夢が叶えられないって思ったことは一度もない。ただ……」

 少し黙った後、

「ただ、何かが狂ったのよ。お父さんの会社が倒産して、お父さんが死んでから、どこか歯車が少し狂ってしまったのよ」

 そう言ってうつむいた三奈代は、孝太郎の左手首に目をやった。

「孝太郎さん、ミサンガどうしたの?」

 孝太郎はハッとして手首を隠すようにすると、

「あ、その……なくしたみたいだ」

 とっさにそう言った。

「そんなに簡単に無くすなんて、ひどい。孝太郎さんにとってはたいした物じゃなかったんだ」

 三奈代の目がだんだん涙ぐんでいった。

「いや、違うんだ、あれは実は、その……」

 孝太郎はあわてて、なんとか説明をしようとしたが、何からどのように話せばいいか分からなかった。

「もういいの、お母さん心配だから行くわ。それじゃあ」

 三奈代は涙を隠すように足早に病室へ戻って行った。孝太郎は1度は立ち上がったが追うことも出来ず、またソファーに座り込むと、頭をかきむしるようにした。三奈代に何もしてあげられない孝太郎は、歯がゆい気持ちで一杯だった。

 マンションに帰った孝太郎は鍵をテーブルの上に放り投げ、気が抜けたようにドッとソファーに座り込んだ。三奈代の絵が目に入った。

(お父さんが死んでから、どこか歯車が少し狂ってしまったのよ)

 孝太郎はソファーにもたれ両手を頭の後ろに置き、病院で三奈代が言った言葉を考えていた。

「歯車が狂った……か」

 独り言を言いながら、しばらくボーっと絵を眺めた。

「待てよ……」

 孝太郎は体を起こし、何かを思いついたように言った。

「俺なら歯車を元に戻すことが出来るかもしれない。そうだ、今を変えられるかもしれない」

 孝太郎は立ち上がると寝室へ行き、あの本を手に取った。そして青いインクのペンを取りベッドに腰掛けて考えた。

「三奈代のお父さんを交通事故から守れば……いや、その前に会社が倒産するのを守らなきゃ……でも、どうやって……」

 孝太郎は天井を仰ぎ目をつむって考えた。そして、

「まず三奈代の家を探さなきゃ。確か父親が生きている頃は藤見ヶ丘に住んでいたって言ってたな……昨日行った時よりももっと前に行かないと。三奈代が3才くらいの時に行って……」

 ぶつぶつと独り言を言いながら年代の計算をした。

3.

 1983年9月3日

 孝太郎は小学校の門の前にいた。

「今頃、授業中かな」

 そうつぶやいたあと、孝太郎は藤見ヶ丘へ向かった。静かな住宅街は人通りもなく異様なほどシンと静まり返っている。詳しい住所がわからないままとりあえず、「阿部、阿部……」と、表札を見ながら歩いた。5件目の家の前で立ち止まった。表札には「阿部」と書かれてある。

「なんだ、簡単じゃないか」

 孝太郎は少し家の中の様子をうかがう様にした。そして、一度咳払いをした後チャイムを鳴らした。返事をしながら出てきたのは50代くらいの女性だった。女性を見て意外に感じた孝太郎は少し後ずさりをした。女性は孝太郎を疑うような目でジロジロ見ている。

「あの、こちらに三奈代ちゃんという女の子はいますか?」

 孝太郎は、おそるおそる聞いてみた。

「うちに子供はいませんけど」

 女性は無愛想に答えた。

「そうですか、すみません……」

 そう言い終わらないうちにドアはバタンと閉められた。孝太郎は「ふう」と大きく息を吐きながら、この家ではないことに安心した。考えてみると「阿部」という名字は少ない名字ではない。孝太郎は簡単に考えていた自分に苦笑しながら、公衆電話を探すため歩き出した。そして、商店街に入っていった。

 商店街の中は人通りも多く活気づいていた。孝太郎は歩きながら、通りの向こう側にある映画館の看板に目をやった。ジェニファー・ビールスが大きく描かれている。映画「フラッシュダンス」が現在公開されているようだ。当時流行した歌とダンスは、当時幼かった孝太郎の記憶にもかすかに残っている。

しばらく歩くと孝太郎は何かを見つけたのか、その方向に向かった。孝太郎が足を止めたのは玩具の店。目の前にはファミリーコンピュータがあった。元祖と言われる古い型のファミコンが、新品で売られている。発売されて間もないようだ。あまりの懐かしさに、かえって物珍しく、また職業柄ゲームソフトにも興味を示し、しばらくそこから離れられなかった。

 後ろ髪を引かれる思いで孝太郎はやっと店を出た。レコード店を通りかかった。外から中を覗くと、そこにCDはなく、レコードが陳列されている。もちろん孝太郎は見たことがないジャケットばかりだ。どれもこれも時代を感じさせる物ばかりだが、孝太郎の目には新鮮に映っていた。

 やっとの事でたばこ屋にたどり着いた。角に公衆電話がある。孝太郎は気を取り直して電話の横に置いてある電話帳を開いた。

「確か敬三っていう名前だったな」

 三奈代の父親の名前を確認しながら電話帳をめくり、指で名前をたどって探した。

「阿部敬三……あった」

 孝太郎はたばこ屋の中にいる女性に声を掛けた。

「すみません、何か書くもの貸して下さい」

 中にいたのはお婆さんだった。耳が遠いのかこちらを見てにこにこしている。ふと見ると窓の近くにボールペンや鉛筆がたくさん入った缶が置いてある。孝太郎はそれを指さし、お婆さんに声を掛けた。

「ペン借りていいですか?」

 お婆さんはやっぱりにこにこしてこちらを見ている。

「あの……」

 孝太郎はもう一度大きな声で言おうとしたが、諦めてボールペンを取った。そして、自分の手のひらに電話番号と住所を書き写した。

「ありがとう」

 ずっとにこにこしているお婆さんにボールペンを見せながら言い、缶に戻した。孝太郎はメモをした住所に向かった。これで三奈代が住んでいる家に行ける。いや、正確には住んでいた家だ。孝太郎は少しずつ緊張していった。

 家を見つけるのに、そんなに時間はかからなかった。家の前に着いたとき孝太郎の心臓は、音が聞こえるほどドキドキしていた。表札を確認すると、阿部敬三、美智子、と三奈代の両親の名前が書かれてある。三奈代の名前はなかった。門から中を覗くと、ピンクの可愛らしい三輪車が見えた。それほど大きな家ではないが、新しく、植木や花が綺麗に手入れされている。

(この家に間違いない)

 そう思いながら、もっと中を覗き込んだ。孝太郎の身体が門から身を乗り出すようになったとき、

「あの、家に何かご用ですか?」

 と、急に背後から声を掛けられた。びっくりした孝太郎が振り向くと、随分ふっくらとした、若々しい三奈代の母親が立っていた。その横で小さな女の子が、母親に手をつながれてキョトンとした表情で立っている。三奈代だ。孝太郎は母親と三奈代を交互に見ながら、あわてて自分が今ここにいる理由をどう説明するかを考えた。

「えっと、あの、犬が……そう、僕の犬が散歩をしていたら急に走りだして……ここに入ったように見えたので、すみません」

「まあ、そうですか。ちょっと中を見てきますね」

 三奈代の母親はそう言って門を開けて中に入った。孝太郎はとっさに出た嘘だったが、うまくいったとホッと胸をなで下ろしたとき、

「犬の種類は何ですか?」

 庭の奥の方で母親が聞いてきたので、孝太郎はもう一度緊張した。

「あの……柴犬です」

 孝太郎はそう答えたが、門の隙間の幅を確認すると、もっと小さな犬にした方が良かったかなと、後悔した。ふと気がつくと、母親が門の中に入ってしまって一人残された三奈代が、黙って孝太郎の顔を見て立っていた。孝太郎は三奈代の目線に合わせて、膝を曲げてしゃがんだ。

「三奈代ちゃん?」

 孝太郎の問いに三奈代は黙ってうなずいた。

「お買い物に行って来たの?」

「うん」

 三奈代は笑ってうなずいた。

「パパいる?」

「パパおちごと」

 小さな三奈代は可愛らしく答えた。もう少し聞こうとしたが、母親が外に出てきたのでそれ以上聞けなかった。

「一回り見たんですがいないようです」

 孝太郎は立ち上がり、

「そうですか……ありがとうございました。どこに行ったのかなあ」

 と頭をかきながら言うと、背後に二人の視線を感じながら、

「ジョン、ジョン……」

 と名前を呼び、犬を探すふりをしてその場を離れていった。

 時は同じくして、場所は大手家電販売店、叶産業の社長室。社長に名刺を渡している男がいた。名刺には「株式会社アークプラン 課長 阿部敬三」と書かれている。三奈代の父親だ。

「この度、アーク印刷からアークプランと名前を変更いたしまして、改めてご挨拶に参りました」

 名刺を受け取った社長は、ソファに腰掛けるように促す仕草をしながら、内線電話で誰かを呼び寄せた。電話を切った後、阿部の向かいに座って言った。

「この間も君ところの営業マンが来ていたよ。なんて言ったかな…。」

「岡村です」

「そうそう、岡村君、熱心に話していたよ」

 ニコニコしながらそう言う社長は、体格もその貫禄があった。

「ありがとうございます。こちらとしても、これからは印刷や広告だけでなく、お客様さまのニーズに対応していく方針でございます。それで、岡村の方からも説明があったと思うのですが……」

「うん、そのことなんだが、こちらも前向きに検討した結果、アークさんにお願いしようと思ってね、すぐに担当者が来るので、これからは担当者と話を進めてくれるかね」

 先ほど内線電話で呼んでいたのは、その担当者らしい。

「ありがとうございます」

 阿部は、一度ソファーから立ち上がり深々とお礼をしながら言った。そのとき、

 コツッコツッ。ノックがして男が入ってきた。一例した30代半ばのその男は、社長とは違いヒョロッとして、とても神経質そうな感じがした。

「あー来た来た、彼が担当者の弘海君、こちらが話をしたアークプランの阿部課長」

 社長がお互いを紹介した。阿部は立ち上がったそのままで、弘海と名刺の交換をした。名刺には「主任 弘海(ひろうみ) 茂」と書かれている。

「よろしくお願いします」

 お互いに挨拶をした。阿部は、弘海と目があった瞬間、めがねの奥にとても冷たいものを感じた。人は長く生きていくと、その人の人柄が人相として表れてくる。顔の印象、特に目の印象は、その人の人柄がある程度わかると言っても良いほど、第一印象は大切なものだが、弘海のめがねの奥に見える目は、人を見下しているような妙に兼のある嫌な印象がした。

(この男はこの印象の悪さで随分損をしているのではないか、あるいはその印象通りの人間なのか)

 阿部は名刺の交換をしたわずかな時間で、そんなことを考えていた。社長が二人を座るように促し言った。

「私からある程度は話をしたのだが、課長からも詳しく説明してくれるかね」

「はい」

 阿部はソファーに座り気を取り直したように、企画書を弘海に差し出しそれに沿って説明を始めた。

「私どものサーバーを使っていただき、叶産業さんのホームページを開設し、仮に『SUNネット』として、オンラインショップを始めます。そして、まずは企業様向けにOA機器をオンラインで販売します。つまり、お客様はお店に行かなくてもパソコンを使ってホームページ上で買いものをすることができます。近い将来パソコンが普及し、一般の家庭でも一家に一台という時代になってまいります。そうなりますと、現在アメリカではそれが常識のように、日本でも一般のお客様が、パソコンでホームページから簡単に買い物するようになります」

「そのマーケティングを、そちらでしていただけるのですね」

 弘海がそう確認した。

「はい、私どもの社員をこちらに派遣し、広告や企画の提案、また、マーケティング企画に必要な調査活動の全てを代行して行います」

 そこで、社長が口を挟んだ。

「うちの空き店舗があるから、そこを事務所にして始めてみようと思ってる。そこの担当者として弘海君に任せるのつもりなので。弘海君は内の社員の中でも優秀な人材なので、これからよろしく頼むよ」

「よろしくお願いします」

 そう言って、弘海は阿部に手を差し出した。

「こちらこそよろしくお願いします」

 阿部も手を差し出し握手をした。

「では、正式な契約手続きがありますので、また後日契約書類をお持ちいたします。ありがとうございました」

 契約が決まり、すこし雑談などをした後、阿部は叶産業を後にした。

 会社に戻った阿部は、すぐに社員を集め叶産業との契約が決まったことを報告した。阿部の言葉を聞いて、社員はホッとしたように小さく拍手をしながら、それぞれが顔を見合わせた。阿部はそれを一度見渡してから話を続けた。

「今後は、何を置いてでも叶産業の仕事を優先的にするようにお願いします」

「はい」

 阿部を始め、社員一同の顔には気合いが入っていた。